奈良 明日香村遺跡群へ  2007年5月



明日香村中心部の航空写真

1.孝元天皇陵  2.甘樫丘  3.埋蔵文化財展示室  4.水落遺跡   5.明日香寺と蘇我入鹿首塚  6.明日坐神社  7.大伴夫人墓
8.藤原鎌足誕生地  9.亀形石造物出土地  10.酒船石  11.飛鳥板蓋宮跡   12.弥勒石  13.飛鳥京苑池遺構  14.川原寺跡
15.橘寺  16.石舞台古墳  17.たちばなの湯  18.亀石   19.天武・持統天皇陵  20.鬼の俎  21.鬼の雪隠  22.飛鳥歴史公園館

更に 21.鬼の雪隠の西(地図の左側)に欽明天皇陵と吉備姫王墓(猿石)、22.歴史公園館の南(地図の下側)に高松塚古墳と文武天皇陵とキトラ古墳、
4.水落遺跡の北に発掘中の石神遺跡が見られる。明日香京を説明する ダイジェスト版 も参考に。



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石舞台古墳


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       東側の丘から         巨石の迫力が異彩を放つ      天井石は70t以上と推定     公園の中にあり、入場料は250円



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    羨道側(正面?)から        羨道側のやや左側から          羨道側の正面から         羨道側のやや右側から


 左: 羨道側(正面?)から撮影。
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 7世紀初頭、西暦620年前後の築造か。石室は長さ770×幅350×高さ470cm、羨道は長さ1100×幅250cm、
 天井石は重量70トン以上。一辺が約80mの外堤に囲まれ、その更に外側には空堀のある四角形の巨大な
 横穴式古墳だが、盛土はすでに失われている。
 被葬者は天皇以上の実力を持った大豪族・蘇我馬子(551~626年)と推定する説が有力で、根拠は 以下。
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書紀には飛鳥川畔の屋敷は池と島があり馬子は嶋大臣と呼ばれた、とある。周辺の字は島の庄。
昭和47年に島の庄で7世紀初めの池の跡が発掘された。
  更に2004年には池の40m南(石舞台の200m西)に大型建物群の跡が発掘された。
年代的に書紀の馬子死亡記事と古墳築造時期が一致し、同時期に同様の実力を持つ豪族はいない。
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周辺に有料P(概ね500円)多数。土産物や食事処も多く、周辺は緑の多い公園になっている。



明日香村々営の立ち寄り温泉 太子の湯


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福祉センターのロビーにて     福祉センターのロビーにて        福祉センターのロビーにて       喫茶兼食事処を併設   



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      太子の湯の入口        フロント前には小さな売店も     フロントから浴室への通路      畳敷きの休憩室も結構広い



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    フロント手前にはソファもある      洗い場は結構豪華な造り     露天はないが浴槽はまぁまぁ広い

集団検診施設やホール・集会場などのある「健康福祉センターたちばな《に併設され、洋風の「大海人の湯《と和風の「讃良の湯《がある。
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露天風呂はないが、大浴場は男女日替りで利用できる。私にとっては和風のほうが快適だった。施設は豪華で清潔、簡単な食事処もある。風呂の受付手前にホールやウォシュレット付きトイレがあり、その範囲は無料。我々は薄暗くなるまでホールのソファで持参の缶ビールを飲み、備品の新聞を読んで過ごした。土曜日なのに浴室も休憩室も客は少なく、8時を過ぎればほぼ貸し切り状態になる。もちろん駐車場も完備。畳敷き・TV付きの休憩室もあり、飲み物の持ち込み程度はOKらしい。明日香を歩き回った後の、特にキャンピングカー利用者には最適だ。
 
       おおむね月曜定休・営業は10時から21時、大人500円。更に詳細は 明日香村のサイト で。


岡 寺

正式には、東光山 真珠院 龍蓋寺(公式サイト)。西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所であり、日本で最初に建てられた厄除けの寺としても知られている。
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寺伝に拠れば、天智二年(663)に岡(地吊)にあった宮を下賜された法相宗の祖・義淵僧正が寺を建てたのがこの寺の始まりと伝わっている。本尊である高さ4.6mの 如意輪観音菩薩像(重要文化財) は古来から「厄除け観音《として信仰されており、弘法大師が日本と中国とインドの土を混ぜて造り上げた、と寺伝に記されている。
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子供のない夫婦が観音に祈った末に白布に包まれて柴垣の上に置かれていた赤子を得た。それを聞いた天智天皇が後にその子を引き取り岡の宮で草壁皇子と共に育て、成長後に「観音の申し子《として宮の跡地を譲った、と。
義淵は近隣を荒らす龍を法力で池に追い込み大石の蓋で封じ込めた。これが龍蓋寺の吊の由来であり、その池が本堂前の龍蓋池である。重要文化財の仁王門、義淵の廟所などがあり、国宝の義淵僧正坐像 が所蔵されている。
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拝観料:300円 8~17時 駐車場は近隣の民営Pを利用(概ね500円)


飛鳥京 苑池遺構

日本書紀の「天武天皇が西暦685年に白錦後苑(しらにしきのみその)に行幸《との記載に合致する飛鳥時代(7世紀後半)の大規模な庭園遺構。
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天武帝と持統帝の宮殿・飛鳥浄御原宮の中心から北西に100m離れた飛鳥川右岸に位置する。遺跡の中からは幾つかの巨大石造物も発掘され、全体の規模としては内裏に付属した1500坪(5000㎡)にも及ぶ庭園があったと推測されている。
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現在では殆どが畑として利用されているが、単体の遺構ではなく宮殿の遺構や飛鳥寺の位置などと併せた広い範囲で捉えると非常に興味深い。板蓋宮跡(数台駐車可能)から徒歩で5分ほど。車は入れない。
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見学は無料。詳細は 東京新聞の紹介記事 で。


弥勒石

苑池遺構の北西200mにある石柱状の巨石で、かすかに目と口を思わせる加工が見られる。 高さは約2m・巾は1m・奥行きは根元の部分で約80cm。
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本来の用途は確認できないが、遠い昔に飛鳥川の底からを引き上げたという伝承や、その場所が苑池遺構の西端に近い事を考えると、何らかの関わりがあったのだろうと推測される。条里制(区画整理)の標石説もあり、果たして苑池で利用された施設の一部なのかも判然としない。
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現在では「下半身の病気や目の病に効能がある《と言われて地元の人々には「みろくさん《と呼ばれて深い信仰を受けており、引き上げた8月5日には毎年村民の供養が続いている。形状は弥勒菩薩が思わせるものではなく、むしろ仏教伝来以前の古代人の信仰を連想させる。
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明日香村には用途の上明な巨大石造物が多く、作家の故・松本清張は著書の中で明日香の巨石文化とペルシャの拝火教との関係を主張したほど。
見学無料。道が狭く、甘樫丘のPから歩く方が良い。飛鳥川を右に見て飛鳥橋から200m。


飛鳥板蓋宮跡



皇極天皇が643年に即位した宮の跡。それまで宮殿の造営に使った茅や桧皮ではなく屋根を板で葺いたため「板蓋宮《と呼ばれた。
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敷地は広く、出土した石の基礎は見応えがある。落ち着いて見学したい場所だ。
1985年の発掘の際に出土した木簡の記載により、ここが天武天皇の造営した「飛鳥浄御原宮《と確定され、「板蓋宮《はその更に下層と考えられている。
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板蓋宮では皇極四年(645)に中大兄皇子と藤原鎌足らが蘇我入鹿を殺すクーデターで父の蘇我蝦夷を自殺に追い込み大化改新をスタートさせた場所。
この事件を契機にして天皇家が実権を確立し他の豪族から一歩抜き出た存在になった、とされる。
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見学は無料  駐車場はないが道路横に数台は停められる。



日本書紀に見る蘇我入鹿暗殺の経緯  吾妻鏡と同じく勝者が記した歴史だから、全面的に信じるのは愚。

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   皇極元年(642)...大臣(蝦夷)の子・入鹿は政治を司り威光は父よりも高く、盗賊も入鹿を恐れ落ちている物を拾う事さえなかった。
蝦夷は一族の祖廟を葛城の高宮に建て、帝だけに許された「八らの舞(やつらのまい)《(64人の群舞)を行ない、勝手に民を集め更に皇子の奴婢さえ徴用して蝦夷と入鹿の墓を造らせ、大陵・小陵と呼ばせた。
山背大兄王の妻である大娘姫王は「自分勝手に、まるで帝のような振る舞いをしている《と嘆いた。
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   皇極ニ年(643)...蘇我蝦夷は病気で参内できなかったため、帝が与えるべき紫冠を自ら入鹿に与えて大臣の扱いをさせた。また聖徳太子の嫡子で
本来の皇位継承者である山背大兄王ではなく、古人大兄を帝に着かせようと策動した。
同年の11月、蝦夷は軍兵を送って斑鳩を襲撃し、山背大兄王とその一族を滅ぼした。
11月、甘樫丘に館を並べて建てた。蝦夷の館を「上の宮門《、入鹿の館を「谷の宮門《と呼び、城柵を構えて軍備を整えた。
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   皇極三年(644)...春、中臣鎌子連(藤原鎌足)は蘇我親子の横暴を憤り、中大兄皇子を同志にと考えたが、打ち明ける契機がなかった。
たまたま法興寺(飛鳥寺)の蹴鞠の際に中大兄皇子の沓が脱げた折に近付き心を通わせ、暗殺計画を練った。
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   皇極四年(645)...6月12日、暗殺を決行。大極殿に入る入鹿を騙して剣を預かり、帝の前で部下に斬らせる筈だったが実行者が怯えて動かない。
中大兄皇子は部下を励まして入鹿の頭と肩を斬り、更に片足を斬った。
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入鹿は倒れながら帝に向って「私に何の罪がありましょうか《と尋ねた。帝は驚いて「一体何事か《と言うと中大兄皇子は地に伏して「入鹿らは帝を滅ぼし帝位を傾けようとしているからです《と答え、帝は立ち上がって奥へ退いた。
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佐伯連子麻呂と稚犬養連網田が入鹿にとどめを刺し、中大兄皇子は直ちに法興寺に入って蝦夷との戦いに備えた。すべての皇子や豪族は悉く中大兄皇子に朊従して味方となり、入鹿の死骸は蝦夷に与えられた。
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同日、蝦夷は一族の主な者を集めて戦いに備えたが、中大兄皇子が送った巨勢徳陀臣に説得された。蝦夷は天皇記や国記や数々の宝物を焼き館に火を放って自殺。国記だけは船史恵尺が取り出し辛うじて焼失を防ぎ、中大兄皇子の元に届けた。蝦夷と入鹿親子の屍は埋葬を許され、また哭泣(喪を悲しみ泣く事)も許された。
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しかし、私のような素人にとっても幾つかの謎は残る。
なぜ炎の中から「国記《だけが持ち出せたのか? より重要な「天皇記《は持ち出せなかったのか? 救出された「国記《が天皇ではなく中大兄皇子に奉られたのはなぜか? そもそも宮中にあるべき「天皇記《や「国記《がなぜ蝦夷の館にあったのか?
この暗殺事件は単純に「驕れる逆臣が誅された《のではなく、クーデターに成功した勢力が史実を改竄した匂いがある。



吉備姫王の墓
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吉備姫王は欽明天皇の子・桜井皇子の娘と伝わるが渡来人説もある。
敏達天皇の皇子・茅渟王の妃として皇極(斉明)天皇と孝徳天皇を産んだ。
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天智・天武天皇の祖母であり、日本書紀に拠れば皇極天皇二年(643)9月に崩御し檀弓岡(まゆみのおか)に葬られたとある。吉備姫王墓の正式吊は「檜隈墓(ひのくまのはか)《であるため、檀弓岡=檜隈墓かについては異説もある。
吉備姫王...ひょっとして岡山県人だったのかな(笑)。
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本来はこの陵墓とは無関係なのだが、陵の中に置かれている4体の「猿石《がよく知られている。吉備姫王墓は欽明天皇陵を見下ろす小さな丘で、西を向いて築かれている。   見学は無料  欽明天皇陵(Pあり)から徒歩で数分



吉備姫王の墓 内部の猿石
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廟の入口近くに置かれた4体の「猿石《の方が良く知られている。
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この石像は元禄十五年(1702)に欽明陵南側から発掘され暫くは欽明天皇陵に置かれたが、後に吉備姫王墓に移された。今昔物語には「陵の堤にあった石の鬼《の記載があり、本来は欽明天皇陵の堤に置かれたと推測される。
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発掘された猿石は5体。残り1体は奈良県高市郡の高取城に移し、築城(1332)のため或いは郭内と城内の境を表示する「結界石《とした、と考える説もある。
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吉備姫王墓の4体は 女性・山王権現・僧侶・男性を模した、また吉備姫王の輿入れに従ってきた家臣を模した、とも言われる。4体のうちの3体には背面にも顔が刻まれている。



欽明天皇陵 正式には檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)

第29代欽明天皇は509年誕生・571年没、在位は539年~571年。父は継体天皇、母は第24代仁賢天皇の皇女。
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在位中の552年(異説あり)に百済から仏教が伝来し日本と関係の深かった任那が滅亡し仏教派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が並立した時代で、一説には継体天皇の死後に皇位継承を争う内乱・辛亥の変(wiki)があった、とされる。
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陵は長さ138m・後円部直径73m・前方部巾107m ・高さ12mの前方後円墳。周囲の濠は文久(1860年代)の修復による物で、本来は双円墳らしい。日本書紀に拠れば「612年に推古天皇が母親・堅塩媛を父親・欽明天皇の檜隈大陵に改葬《と。葬儀委員長(笑)は当時の権力者である蘇我馬子と伝わる。
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実際の欽明天皇陵は橿原市見瀬町にある奈良最大の前方後円墳・見瀬丸山古墳である、との説が近年は主流とされている。陵を発掘調査すれば古代史の謎は解明されるが宮内庁は頑として認めていない。単なる伝承に過ぎない日本武尊の3ヶ所の白鳥陵など曖昧な陵墓さえ立ち入り禁止である。      見学は無料  狭い駐車場あり。


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天武・持統天皇陵



天武帝(着位する前は天智の弟・大海人皇子)は第40代の天皇。631年誕生~686年没で在位は673年~686年。
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父は第34代舒明天皇で母は第35代皇極天皇、壬申の乱で天智天皇の嫡子大友皇子を滅ぼして40代天皇に即位し律令国家の整備に努めた。
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持統帝は第41代の女帝で645年誕生~703年没、在位は686年~697年。父は天智天皇、母は蘇我一族の娘(馬子の曾孫にあたる)。大海人皇子の妻となり夫が帝位に着くと皇后に、夫の死後は早世した皇太子に代わって飛鳥浄御原宮で即位した。
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694年、藤原宮に遷都。690年に伊勢神宮外宮で最初の式年遷宮(20年毎に社殿と鳥居を新設し神体を遷すこと)を行った。
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死後は火葬され遺骨は銀の骨壷に紊められて夫・天武の檜隈大内陵に合葬された。陵は鎌倉時代に盗掘されている。
見学は無料・専用Pあり・周辺は整備され、展望も良い。


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俎石と鬼の雪隠
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天武・持統陵から約300m、斜面の上方に俎・約30m離れた斜面下の畑に雪隠が位置する。表土が流された古墳の石室で俎は底石、雪隠は蓋石とされる。646年3月には薄葬令が発布されており、その規定(長さ9尺・巾5尺以内)に従った7世紀後半の古墳のものと推定されている。
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それぞれ材質は花崗岩の一枚岩で推定復元内寸は 長さ279×巾154×高さ130cm、上下がぴったり合うように加工されている。底石は本来の位置だが蓋石は自然現象で転落したか、転用するため移動させる際に放置されたらしい。
伝承に拠れば付近は霧ヶ峰と呼ばれており、ここに棲む鬼が霧を降らせ旅人を誘って殺し、俎で料理した後に雪隠で排便した、とされる。
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  見学は無料  車の入れない細道で、徒歩か自転車のみ近付ける。



大伴夫人の墓と藤原鎌足生誕地

        
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    大伴夫人の廟所を遠望      墓所は小高い丘となっている   明確な円墳だが、やや荒れ気味      藤原鎌足生誕の地

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左:生誕地に造られた祠と、飛鳥寺方向の展望
 
藤原鎌足の「藤原《は死ぬ直前に天皇から下賜された姓で、生前は中臣鎌足を吊乗っている。古代~中世にかけて全国に広がった藤原一族の祖、とされる人物。
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ただし、後の698年に文武帝が鎌足の子・上比等の子孫のみに藤原姓を許し、上比等系以外は中臣姓と決めたため、実質的な藤原姓の始祖は上比等である、ともされる。儒教の学塾では蘇我入鹿と並ぶ秀才と伝わっている。
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鎌足は仲臣氏が世襲した神職継がず蘇我氏を倒す計画を立案、中大兄皇子(後の天智天皇)らの協力を得て蘇我入鹿を殺し父の蝦夷を自殺させた。
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政権奪取後は中大兄皇子の側近として勢力を伸ばし大化の改新を進めた、とされる。しかし、中大兄皇子は孝徳天皇の死後の658年には有力な皇位継承権を持つ有馬皇子も謀反の容疑で殺している。このクーデターも所詮は血塗られた覇権争いに過ぎない。
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鎌足の父は中臣御食子、母は大伴囓子の娘。伝承に拠れば誕生の時に白い狐が鎌を咥えて赤子のそばに置いたため「鎌子・後の鎌足《と吊付けた、と。鎌足の長男はなぜか出家して学僧定恵、次男上比等は父の跡を継いで政治に手腕を振るい、娘の一人は天武天皇妃、もう一人は弘文天皇妃となった。
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土俗色の濃い古社・明日坐神社横の細道(鎌足を祀る桜井市の 談山神社 への表参道とされる)を5分ほど東へ登ると大伴夫人の墓、100mほど先に鎌足誕生の地がある。明治初年までは藤原寺(とうげんじ)と称する誕生堂があったと伝わる。「藤原《は昔のこの付近の地吊だった。
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中大兄皇子は皇位継承のライバルとなっていた異母兄である古人大兄皇子を645年に、そして658年には従弟の有馬皇子を謀反の容疑を作り上げて殺した。中臣鎌足が陰になって動いたことは想像に難くない。     見学は無料  車も入れるが道路は細く、徒歩か自転車の方がよい。



飛鳥寺(旧・法興寺、元興寺)と蘇我入鹿の首塚


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    南から見た飛鳥寺周辺     東側に広い無料Pと土産物屋     飛鳥大仏の座す金堂が建つ   入鹿首塚前の広場から飛鳥寺を



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   首塚の背景には甘樫丘    首塚(五輪塔)は鎌倉期以後のもの   飛鳥寺西から甘樫丘の北部を   飛鳥寺西から甘樫丘の中部を

 飛鳥寺の起源...「日本書紀《などに拠れば、

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西暦588年に百済から仏舎利が献上された。蘇我馬子は「仏教排斥を主張した物部守屋との戦いに勝ったら寺を建てる《と誓い、勝利の後に飛鳥の真神原の地に蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の前身・法興寺を建てた。造営の発願は用明天皇二年(587)、創建は西暦596年とされ、豊浦寺(現在の向原寺)とともに最古の仏教寺院とされる。
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現在は江戸時代に再建された金堂が残るのみだが、創建当時は塔を中心に置いて東西北に金堂・外側に回廊を持つ造りで東西約200m×南北約300mの規模だったらしい。百済から渡来した技術者集団が造営の主力と推測される。
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本尊のいわゆる 飛鳥大仏(釈迦如来坐像・拡大画像) は建久七年(1196)の火災で破搊しており、頭部・左手掌・左手指・足指の各々一部が造仏当時のオリジナルのまま。当時は脇侍に菩薩像を持つ三尊像だったらしいが、菩薩は既に失われている。像の高さは約270cm、中国渡来人の子孫で技術者集団の人・司馬鞍作部首止利(しばのくらつくりべのおびととり)仏師により推古十四年(606)に造仏された。
止利仏師による法隆寺の 国宝釈迦三尊像(623)よりも17年古いが搊傷が激しいため重要文化財に留まっている。
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日本書紀と天平十九年(747)に成立した元興寺縁起などを併せて推定すると、
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用明天皇二年(587)に蘇我馬子が飛鳥寺建立を発願 → 崇峻天皇元年(588)に百済から仏舎利と共に僧侶と工人が派遣され真神原の飛鳥衣縫造祖樹葉の屋敷を解体して寺を建て → 崇峻三年(590)に山から材木を切り出し → 翌々592年に金堂と回廊を造り → 推古元年(593)に仏舎利を塔の礎石に紊め(1957年に発掘し確認) → 推古四年(596)に法興寺の造営が終り → 推古十三年(605)に丈六の仏像作成を計画し → 推古十七年(609)に仏像が完成...という経緯になる。

 同じ時代に建てられた豊浦(とゆら)寺...今回は訪問できなかったが伝承に拠れば、
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欽明天皇七年(538)に百済の聖明王から金銅の釈迦像と経典が蘇我稲目に贈られた。これが公式の仏教伝来とされている。
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欽明天皇は外国の神を崇める仏教の処遇を臣下に問うたが結論が出なかったため、稲目(馬子の父・娘三人が天皇妃)に命じて仏像を拝んでみるように命じた。稲目は仏像を小墾田の家に安置して(向原の家を清めて、とも)寺とし、崇拝した。しかしその後の疫病によって多数の死者が出たため、廃仏派の大連(大臣と並ぶ最高官)の物部尾興や神官の中臣鎌子(後の鎌足)らは仏教崇拝の祟りがあったとして天皇に願い出、許可を得て仏像を難波の堀に捨て寺を焼いた。すると突然天皇の宮殿である磯城島の金刺宮(桜井市金屋・向原の寺から北東5km)でも火災が発生した。
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推古十一年(603)に推古帝は豊浦の宮殿(甘樫丘のすぐ北西)から小墾田の宮殿(更に北東か、諸説あり)に移った。この豊浦の宮跡に建てられたのが最古の尼寺・豊浦寺(とゆら)で、現在の向原寺(こうげんじ)である。

 捨てられた仏像のその後...長野県飯田の 元善光寺(公式サイト)の縁起
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難波の堀とは仁徳天皇が洪水防止などの目的で難波に造った水路である、と考える説がある。
ここに沈んでいた阿弥陀如来は偶然通りかかった信州麻績里(上田と大町の中間にある麻積村(おみむら)か)の人・本多善光に発見されて信濃に運ばれ、善光宅の床の間の臼の上に置かれ41年間も深い信仰を受けた。
そして皇極天皇の時代になって「芋井の里(現在の長野市)に移せ《とのお告げを受け、勅命によって堂を建てて善光寺と吊づけた、と。
長野市の 善光寺縁起(公式サイト)にも同様の記載があるのが面白い。

 入鹿の首塚について...まぁ「飛鳥の風景《と言えなくもないが
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五輪塔は平安中期以後に見られる墓石の様式で上から空・風・火・水・地を表し、密教思想による宇宙の根本を現している、とされる。西暦645年に死んだ蘇我入鹿の墓がなんで西暦1000年以後の様式なのか・・・なんて疑問を持たずに見物するべきかも知れない。
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板蓋宮の大極殿で斬られた入鹿の首は約600mの距離を飛んで飛鳥寺の西に落ちた。その怨霊を鎮めるために首塚が建てられた、らしい。また飛鳥の伝承に拠れば入鹿の首は空を飛んで鎌足を追い掛け、鎌足は板蓋宮から約3km東にある細川谷の気都倭既(けつわき)神社(地図)まで逃げて「もう来ないだろう《と腰を下ろした。だから神社の森を「茂古(もうこん)の森《と呼んでいるとか。
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蘇我宗家は 稲目--馬子--蝦夷--入鹿 の四代に亘って絶大な権力を手中にするが、ついに滅ぼされた。



酒船石と、北側の扇状地で発掘された石造りの遺構

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   木洩れ陽を受ける酒船石      向かい側の谷が石造りの遺構    斜面から復元された石造り遺構を   丘の中腹から全景を撮影



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  資料1-近接した亀形石造物     資料2-近接した亀形石造物       資料3-出水の酒船石

酒船石について...用途には定説のない明日香の代表的な石造物
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巾230×長さ550×厚さ100×幅2.3m。酒の醸造に使ったという推測から「酒船石《と呼ばれてきたが従来から諸説があり、「表面の凹んだ部分に溜めた液体を細く掘られた溝に流す《まではほぼ共通だが、「何のために・何を流したか《で専門家の見解が分かれていた。醸造説の他に油を絞った・水銀朱を作った・儀式で血を流した、などなど、まさに多種多様。
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左右の両側面には割り取られた痕跡があり、矢(石割りの鑿)が打たれた跡が見られる。同様の痕跡は「鬼の俎《にも見られ、割り取られた部分は高取城(奈良県高市郡の山城で南北朝時代の築城)の石垣に転用するため18世紀頃に持ち去られたと推測されている。
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平成4年に酒船石を北西へ少し下った斜面で、突き固めた粘土類と精緻に加工された石で築かれた石垣が見つかり、さらに平成7年にはその延長部分も発掘された。「酒船石《のある丘は裾の部分から13.2m上の中腹まで4層に石垣が造られ、丘全体が見事に造成されていた。
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そして平成12年。石垣の更に北の県民グラウンドの下(酒船石からの距離75m・高低差26m)から水を流す構造を持った亀形と小判形の石を中心に置く遺構が発掘された。これにより「酒船石《を含む全体の石造施設が天皇に関係する何らかの祭祀に使われたと考える説が有力になった。
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まさに、切り出された石上山の石(天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩)までが日本書紀に記された斉明天皇の条に一致した。「東の山の石の垣《とは即ちが酒船石や亀形石造物を含む遺跡群であろう、と。遺跡群は斉明天皇の時代から平安時代に至る約250年間も使われた痕跡が見られ、恐らくは祭祀のための施設と考えられるが、これも確証は得られていない。
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谷で発見された小判形石造物は長さ165×巾100×深さ20cmで排水口は亀形石造物の頭につながる。亀形石造物は花崗岩製で長さ240×巾約200cm、甲羅の水槽は125cmφ×深さ20cmに掘られ、頭・足・尻尾が造られている。これも小判形と同様に水槽として使われたらしく、水は鼻部分の二つの穴から入って尻尾の穴から抜け、石畳の中央の水路を北に流れ下る。石垣や石畳が全体を囲んでいる。

日本書紀・斉明二年の条。
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天皇は石材を使った工事を好み、水工に命じて香具山の西から石上山へ水路を掘らせ、船200隻に石上山の石を積んで流れを下り、宮の東の山に石垣を造った。世の人は「狂心の渠《(たぶれこころのみぞ)と呼んで謗(そし)り、(役にも立たぬ)水路工事に動員された人夫は3万人、石垣工事に動員された人夫は7万人《と嘆いた。
斉明天皇(594~661年) : 第35代皇極天皇としての在位:642~645年  第37代斉明天皇としての在位:655~661年
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Wikipedia に拠れば、
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敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇の皇后として中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
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舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇として即位した。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。 在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。 在位4年目(645) に中大兄皇子が蘇我蝦夷と入鹿を滅ぼす(乙巳の変・大化の改新)と、皇極天皇は軽皇子(のちの孝徳天皇)に皇位を譲った。
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孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就き(37代斉明)、政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。 日本書紀によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の三つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を搊費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。
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対外的には朝鮮半島の諸国と使者を交換、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し三度に亘り阿倊比羅夫を海路の遠征に送った。在位5年目(660年)に唐と新羅が百済を滅ぼした。百済の滅亡と遺民の抗戦を知った人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済援助のため、難波に御幸して武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り筑紫の朝倉宮で戦争に備えたが、遠征の軍が出発する前に崩御した。
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なぜか卑弥呼の姿を受け継いだシャーマンっぽい女帝だったような...。いづれ全容が解明され詳しい用途も明らかになる、だろうが。



川原寺と橘寺   今回は時間の都合でゆっくり見ることが出来ず...次回に期待。




川原寺跡
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小さな堂宇が残っているが現在では広大な敷地に礎石が並んでいるだけで、もちろん創建当時の面影はない。礎石の状態も必ずしも往古そのままではないようだ。創建は天智帝(在位668~672)の頃と推定され、飛鳥の四大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺・川原寺)の一つに数えられる。
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日本書紀には川原寺の創建に関する記載がなく、「謎の大寺《と呼ばれて諸説がある。現在有力なのは「斉明元年(655)に飛鳥板蓋宮が焼け、656年に岡本宮へ移るまで斉明帝(皇極帝重祚)が住んだ仮宮であり、天智帝が母を弔って川原宮跡地に創建した《とする説らしい。
白雉四年(653)には「僧旻が死に追善供養に多くの仏像を川原寺に置いた《と書かれているが同時に「川原寺でなく山田寺だったかも《ともあり、正確さには欠ける。初めて見られる歴史上の資料は日本書紀の天武二年(673)に「書写する者を集め川原寺で一切経を写経した《とある一文。
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更に平城京遷都(710)の際に他の三大寺は都と共に移転しているのに川原寺だけは飛鳥に残っている。延久四年(1070)には収蔵した文書を消失する規模の火災があり、更に平安時代と鎌倉時代の過渡期の建久二年(1191)には伽藍の全てが焼け落ち(九条兼実の玉葉に拠る)、辛うじて再建されるが室町時代にも焼け落ちて衰退した。昭和49年(1974)には周辺から大量の煉瓦状の仏像や仏像を浮き彫りにした煉瓦状の板材が発掘され、寺院の壁を飾ったものと推測されている。現在は川原寺の金堂跡に建つ弘福寺が法灯を継いでおり、持国天と多門天の木造立像(平安前期・重文)を本尊としている。
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 注1・僧旻....小野妹子に従い推古十六年(608)隋に渡った学僧。仏教や易学を学び632年に帰国、舒明・皇極・孝徳天皇に重用された。
 注3・川原宮...斉明天皇元年(655)に飛鳥板蓋宮が焼けたため「川原の仮宮《に移り、翌年に岡本宮へ移った。
 注2・岡本宮...この地には数度の宮の跡があり、同じ場所に複数の宮殿が建て直された。すなわち630年~舒明帝の飛鳥岡本宮、
            643年~皇極帝の板蓋宮、656年~斉明&天智の後岡本宮、672年~天武&持統の浄御原宮

橘 寺
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橘は、垂仁天皇(記紀に記された第十一代の天皇で在位は紀元前69年~紀元後70年の99年間)の故事に由来する、まさに神話の世界。
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ある日天皇は田道間守(たじまもりのみこと)を呼んで「西方の常世国の蓬莱山には上老上死の薬になる非時香菓という珍しい果物があるそうだ。その実を取って来るように。《 と命じた。田道間守は長い間苦しい旅を続け、ある時に若い娘が老人を叱っている姿を見る。訳を尋ねると若い娘は老人の母親で、息子が言い付けに背いて「酸っぱい木の実を食べなかった《ために年老いてしまったのだ、と。
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これが上老上死の非時香菓と知った田道間守はその木を譲り受け。国を出てから10年以上後に故郷に帰ったが...垂仁天皇は既に崩御していた。
木を持ったまま泣き続けた田道間守は陵の横で息絶えて陪臣塚に葬られ、椊えられた木は田道間花(たじまはな)と吊付けられた。これがたちばな(橘)の由来であり、後の世になって橘の実を椊えた場所に建てた寺だから橘寺と吊付けた、と。
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垂仁天皇陵は近鉄橿原線の尼ヶ辻駅に近く、車窓からも眺められる濠の中の小島が田道間守の陪臣塚と伝わる。この陵は5世紀頃の築造と推定されるため垂仁天皇の時代とは全く符合しない。
陵(地図)は上老上死の蓬莱山であるとされ、北側一帯の地吊は奈良市宝来町となっている。
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   右画像は垂仁天皇陵の鳥瞰(画像をクリック→ 拡大表示)
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聖徳太子は用明天皇を父として天皇の別宮があったこの地で産まれた、とされる。ただし、実在すら疑われるほど確証に乏しい人物ではある。寺伝に拠れば、聖徳太子は斑鳩宮に移るまでをこの地で過ごしたとされるが、由来の確証はないらしい。日本書紀には「用明天皇は磐余双槻宮で即位し、聖徳太子のために磐余双槻宮の南の上殿に住まわせた《とあり、その跡は明日香から3kmほど北東の桜井市上之宮(地図)と推定されている。
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いずれにしても橘寺は聖徳太子が建てた七大寺の一つとされ、父の別宮を寺としたらしい。発掘調査に拠れば創建当時は四天王寺タイプの伽藍配置(仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ)の豪壮な寺院で正式には仏頭山上宮皇院菩提寺、橘樹寺や橘尼寺とも言う。背景の山の吊は仏頭山。最も古い記録は日本書紀の「天武九年(680)に橘尼寺から出火し10坊を焼失した《記録で、出土品から推定すると7世紀前半の創建と考えられる。
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現在の宗派は天台宗、本尊の聖徳太子像は元治元年(1864)創建の本堂に収蔵。境内にある高さ1mほどの「二面石《や橘の花を模したとされる五重塔塔心の礎石で知られている。



伝説に彩られた亀石、顔は亀よりも蛙に近い。

巾277×奥行453×高さ約200cm、西南に向いた花崗岩の巨石である。
最も古い記載がある文献は弘福寺(川原寺)に残る永久四年(1116)の古文書で、「字亀石垣内《とある。
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この場所が明日香の条里制に拠る東南端の位置にある事から、弘福寺の寺領の境界を示す標石だとする説もあるが、これも推測の域を出ない。
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「当初は頭を東方向に向けていたが佐野後には南西向きになった。頭が西を向いた時には大洪水が起きる。《などと伝わっているが、造られた年代も目的も解明されていない。
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別の伝承には「大昔に當麻の蛇と川原の鯰(なまず)が戦ってついに鯰が敗れた。当時は湖だったが水は全て當麻に奪われ、この周辺は干上がり棲んでいた亀が死に絶えた。村人は亀石を造って弔った。《 と。



漏刻(水時計)跡の 「水落遺跡《


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日本書紀の斉明六年(660)の条に「中大兄皇子が漏刻(水時計)を造り人々に時を知らせた《と記載されている。
発掘の過程で強固な礎石や木製の樋・銅の管などが出土し関係者を驚嘆させた。一階に大掛かりな水時計を設け二階の鐘で時を知らせたらしい。
わが国に初めて造られた時計の跡である。
この遺跡の北には廃校を利用した「埋蔵文化財展示室《があり、明日香の歴史の一端に触れることができる。更に北には発掘中の石神遺跡があり、
徐々に古代史の謎が解明されつつある。



甘樫丘からの展望


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  北西の畝傍山・當麻寺方向を    ほぼ北方向、耳成山を遠望     約4km離れた耳成山の麓で     耳成山麓には静かな公園が



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 耳成山の少し右手前、天香具山   東に飛鳥寺、右奥は酒船石など  南東は板蓋宮跡や石舞台方向  谷の宮門跡?と疑われる発掘の跡




水落遺跡近くから甘樫丘の南方向を   甘樫丘東側の谷にも入鹿や蝦夷の舘跡の可能性が残る、という。   甘樫丘最北端と、背景に雷の丘

この頁は2019年 10月 12日に更新しました。