日本武尊の廟・三ヶ所の 白鳥陵(みささぎ) 

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日本武尊(古事記には倭建命)は第12代景行天皇(在位:紀元前13年〜紀元後130年)の子で、日本書紀に拠れば第二皇子・古事記に拠れば第3皇子、母は播磨稲日大郎姫。第14代仲哀天皇の父と伝わる。実在したと仮定すれば紀元後300〜350年を生きた皇子と考えられる。父の愛人を奪った(或いは、父の言い付けを守らなかった)兄を殺した結果父に疎まれ、少ない兵による九州熊襲討伐を命じられた。熊襲の宴に於いて美女の姿で熊襲建の兄弟を殺し、勇猛さによって熊襲建からヤマトタケルの名を献じられた、と伝わる。
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熊襲討伐を終え都に帰ると、天皇は更に東国の平定を命じる。日本武尊は叔母の倭姫命を伊勢神宮に訪ねて天叢雲剣を与えられ、駿河・相模・上総など東国の敵を平定。都に戻る途中の伊吹山で病を得て三重県亀山市の能褒野で死んだ。享年は30歳、その魂は白い鳥に姿を変えて能煩野を飛び立ち奈良県御所市の琴弾原に舞い降り、再び飛び立って大阪の羽曳野に降り立った。そのため三ヶ所に陵墓が造られた、と伝わっている。
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もちろん大部分は神話の世界の記述である。古事記と日本書紀では細部が異なっているし、歴史家により「架空の人物説」や「複数の皇子説」や「遠征した軍団の擬人化」などの主張もあるが、いずれにしてもその生涯は壮大なロマンに満ちており、熊襲の物語・草薙剣の物語・弟橘姫の物語・死に臨んで詠んだとされる「倭は 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるはし」の歌など、興味は尽きない。
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・・・そんなわけで、三重県亀山市の能褒野陵〜奈良県御所市の琴弾原白鳥陵〜羽曳野市軽里の白鳥陵の三ヶ所に立ち寄ってみた。特に羽曳野の陵などは年代的にも日本武尊の墓とは考えられないが、まぁその辺は固く考えずに観光旅行と割り切ってしまおうっと。但しいずれも宮内庁の管理下にあり、柵内は立入り禁止。
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能褒野陵地図)の一帯は「のぼのの森公園」として整備され南北に専用無料Pあり。南側のPにはトイレもあり陵にも近い。隣接の神社境内にも駐車可能。明治12年(1879)に宮内省が指定した直径90mの前方後円墳。周辺から5世紀の円筒埴輪も出土しており、当時の大和政権の勢力を推定させる。
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琴弾陵地図)周辺は道路が狭く車は示願寺までしか入れないため寺の門前に駐車し、徒歩で人家の間の路地を登って丘に至る。何の指定も無いが記紀には「琴弾原」の記載がある。直径30mの小規模な円墳は宮内庁にとって日本武尊の陵に相応しくない、のかも。
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羽曳野白鳥陵地図)の周辺は住宅密集地で、駐車は全く不可。北側の「イズミヤ」のPに停めて400m歩き、西側の門に至る。後円部分まで北側半周の遊歩道あり。白鳥が最後に降り立った地。陵は円径106m・前方部の巾165mでこの地域最大規模、実際には5世紀末〜6世紀初頭の大王クラスの墓と推定されている。


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        左側 : 能褒野陵-01・・
        左中 : 能褒野陵-02・・
        右中 : 能褒野陵-03・・
        右側 : 能褒野陵-04・・


     

        左側 : 能褒野陵-05・・
        左中 : 能褒野陵-06・・
        右中 : 能褒野陵-07・・
        右側 : 能褒野陵-08・・


     

        左側 : 能褒野陵-09・・
        左中 : 能褒野陵-10・・
        右中 : 能褒野陵-11・・
        右側 : 能褒野陵-12・・


     

        左側 : 琴弾陵-01・・
        左中 : 琴弾陵-02・・
        右中 : 琴弾陵-03・・
        右側 : 琴弾陵-04・・


     

        左側 : 羽曳野白鳥陵-01・・
        左中 : 羽曳野白鳥陵-02・・
        右中 : 羽曳野白鳥陵-03・・
        右側 : 羽曳野白鳥陵-04・・