明日香京の歴史 ダイジェスト版
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   〜 明日香に都が置かれたのは 〜
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西暦592年12月8日、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が第33代の推古帝として豊浦宮で即位した。この宮の跡には現在向原寺が建っており、この年が明日香に都が置かれた最初と伝わっている。
第32代の崇峻天皇は大臣(おおおみ)の蘇我馬子に推薦されて即位し、倉橋の柴垣宮(奈良県磯城郡)で約5年間政務を司った。蘇我馬子の対抗勢力だった大連(おおむらじ)の物部守屋は穴穂部皇子(あなほべのみこ)の即位を画策するが馬子は皇子と共に物部守屋も殺し、物部氏は没落してしまう。仏教を嫌い神道を擁護した物部氏の没落によって仏教は隆盛し、この頃に明日香寺や四天王寺が建立された。ただし政治の実権は馬子らが掌握したため傀儡に近かった帝は不満を高めて行く。
西暦592年の10月4日、天皇は小刀を抜いて献上された猪の目を突き刺し「猪の首を切るように、憎いと思う者を斬りたいものだ」と語った。馬子は自分が憎まれていると思い、部下の東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺、同月には東漢直駒も密通の嫌疑で殺してしまう。この暗殺事件直後だったため豊御食炊屋姫は何度も即位を拒むが、最後には受け入れた。西暦694年に持統女帝が藤原京に都を遷すまでの102年間、明日香は王都として繁栄する。

   〜 その後の政局は 〜
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「日本書紀」に拠れば、推古帝は即位の翌年4月に当時20歳の甥である厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子と定め、摂政としてすべての国政を委任した。実力者の蘇我馬子と厩戸皇子の勢力バランスに配慮し政治を安定させたのだろう。厩戸皇子も期待に応えて存分にその才能を発揮し斑鳩に法隆寺を建立、遣隋使の派遣や仏教の隆盛に勉めている。
しかし推古30年(西暦622)には厩戸皇子が没し、4年後の推古34年(西暦626)には蘇我馬子が没した。老いた推古帝は優れた部下を二人続けて失い、西暦628年には失意の死を迎える。ちなみに、馬子が葬られた桃原墓は石舞台古墳である、とされる。推古の後継は馬子の嫡子・蝦夷の意見によって田村皇子を舒明帝として即位させた。舒明帝は西暦642年までの14年間、蘇我蝦夷の補佐で政務を司った。

   〜 乙巳の変と大化の改新 中大兄皇子のクーデター 〜
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舒明天皇の後継は皇極帝、女帝である。母は吉備姫王であり敏達天皇の孫にあたる。舒明天皇の后として中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)を産んでいる。政務は大豪族の蘇我蝦夷と嫡子の入鹿が握り、次第に専横が目立つようになった。豪族たちは朝廷に出仕せず甘樫丘の蘇我邸に詣でる有様だった、と日本書紀には書かれている。更に入鹿は蘇我の血縁でもある古人大兄皇子を帝にするために皇位継承権者であり聖徳太子の子である山背大兄王をも殺し、彼の一族を滅ぼした。
即位3年後の西暦645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌子は皇極帝の前で部下と共に入鹿を斬り殺して法興寺に入り戦備を固めた。結果として残された蘇我蝦夷に味方する者はなく、翌13日に蝦夷は舘に火を放って自殺した。

   〜 クーデターの首謀者中大兄皇子は守旧派だった、の説もある 〜
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甘樫丘の東麓にあった蘇我入鹿の邸・谷の宮門の可能性がある場所が2005年に発掘され、兵舎や武器庫の跡が確認された。また蝦夷邸や飛鳥寺の位置から推定して、蘇我氏は飛鳥板蓋宮の周辺に防御ラインを造って外敵の攻撃を防ぐ意図を持っていたのではないか、との説がある。西暦618年に建国した唐が朝鮮半島に影響力を強め、倭国も唐の脅威を受ける危機意識が蘇我氏にはあった。だから従来の百済ベッタリの方針を改め各国との協調外交を考えた、だが従来の百済重視路線を守ろうとする中臣鎌足や中大兄皇子ら保守派が蘇我氏を倒して主導権を握ったと推定する。入鹿・蝦夷を殺した保守派は百済重視外交を進め、白村江の敗戦でそれが破綻した、とする説である。いやはや歴史は複雑だ...

   〜 皇極帝→孝徳帝→斉明帝(皇極帝の再即位)へ 〜
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クーデター直後に皇極帝は退位し、弟の孝徳帝が即位した(在位は645年〜654年)。孝徳天皇の死後は再び皇極天皇が斉明帝として即位(在位は665年〜661年)し、中大兄皇子は皇太子として体制を改革し大化の改新を推し進めた。女帝は大きな土木工事を好み、現在明日香に残る大規模な遺物の多くが彼女の事跡とされている。労役や税に苦しんだ人々は三つの失政があった、としている。1.倉を造り民の財を集めた 2.溝を掘って公費を消耗した 3.船で石を運び丘を造った、と。
西暦660年に百済が滅びると人質として日本にいた百済王子豊璋を送って百済再興を図り、自ら難波に移って軍備を整え更に筑紫の浅倉宮で新羅との戦争に備えたが、翌661年の遠征軍出陣前に没した。

   〜 天皇空位の後 西暦663年に天智帝(元の中大兄皇子)の即位 〜
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西暦663年8月、百済救援に向った日本軍と百済残存勢力の連合軍は朝鮮半島の白村江で新羅・唐の連合軍に大敗し、百済の遺民と共に日本に逃げ帰った。唐帝国が最も強大だった頃である。天智帝は九州北部に防衛拠点を築いて唐・新羅の侵攻に備えたが665年前後から唐との和平交渉が進み、西暦667年には難波から大津へ遷都した。669年には遣唐使を派遣するまでに両国の関係が修復している。

   〜さらに天武帝から持統女帝へ、そして藤原宮へ遷都 〜
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天智帝は西暦671年に急死(毒殺説も)、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が後継を争い翌672年に壬申の乱となったが大海人が勝利し、天武帝として即位した。天武帝は軍事力を背景に独裁を強化し国家体制を整えている。
西暦6722年の天武帝の死後は持統女帝(天智帝の娘であり天武帝の妻)が飛鳥浄御原宮(明日香村・岡の板蓋宮跡らしい)で即位し、この地で西暦694年までの22年間を国家の基礎固めに過ごした。そして西暦694年には甘樫丘の北側・板蓋宮から4kmほど離れた藤原宮 (耳成山・香久山・畝傍山に囲まれた広大な地域)に遷都し、明日香の首都機能は終焉を迎える。